Aさんからの「退職希望」

Aさんからの「退職希望」

今より数カ月前、私の部下の女性(Aさん)から、今の職場を退職し他の職場に転職を考えたいという相談を受けた。

あまりにも藪から棒な相談だったので、何はとも転職の理由を聞いてみると、収入面での不安から今よりもより給与の良い会社に移りたいということらしい。

彼女の採用面接を担当したのは私自身であったので、入社前からAさんが小学校2年生と5歳の二人のお子様を抱えるシングルマザーであることは認識していた。

ただ、面接時にも当社の給与で生活面の問題はないか?という事はくどいほどAさんにも確認しており、Aさんからもその点は
全く問題無いと聞かされていた。

その前提があった上で、今になっていきなり収入面の不安と言われても、どこか腑に落ちない感覚を持った私は、結論を急がずまずはじっくりと話を聞いてみることにした。

Aさんの置かれた環境

改めてAさんの状況を整理すると

・数年前に離婚をし、今現在は二人のお子さん(小学校3年生の男の子と5歳の女の子の二人)と、Aさんのお母様と、Aさん本人の合わせて4人暮らしである。

・離婚原因はAさんの元夫の借金と暴力であり、借金の原因は主にギャンブルによって出来たものである。

・Aさんは介護関連の資格を持っており、以前も介護職に従事していたが、数年前にヘルニアを発症し、今後介護の業務に復帰することはほぼ不可能な状態。

・Aさんの入社前の希望月収額は最低で手取り15万円、それに手当や給付金、あとは元夫からの養育費を加算すればなんとか4人での生活は成立するとの事。

・現在Aさんが務める当社は、一般的な内勤営業であり、18時定時で残業はほぼゼロ。暦通りに休みがあり、年間休日は127日。雇用形態は契約社員で、最長契約期間は6年である。

※私の個人的な感覚としてだがこの地域ではまずまずの待遇といえる。

といった様に、子供を抱えるシングルマザーとしては珍しくない境遇であり、確かに収入面では不安はあるものの、小さなお子様を抱えるAさんにとって、介護職時代は夜勤もあり、またヘルニアの件もあったため、体に負担もなく、何よりも休日と就業時間が安定している当社への入職をとても喜んでおられた記憶がある。

事実、Aさんは当社の就業環境に非常に満足しており、1日でも長く務めることを常に望んでおられた。

ではなぜ、Aさん自身も満足していた今の環境・職場を変えざるを得なくなったのか?

Aさんに起こった事、それは元夫の「失踪」であった。

ではそんなAさんに何があったのか、改めてAさんから事情を聞いてみたところ、どうやら元夫からの養育費が先月からストップしており、また何度元夫に連絡をしても音信不通であるとのことらしい。

Aさんの話しによれば、二人の離婚はいわゆる協議離婚であり、離婚に際しての諸々の件については、当然のことながら条件やルールについて弁護士と共にしっかりと取り決めていたという。

特に養育費については、二人のお子様を引き取るAさんにとっては最重要事項であった為、元夫の連絡先のみならず、職場の連絡先も聞き取っていた。

また、万が一夫からの入金が確認できない場合、は元夫の給与を差し押さえる手はずになっていたという。(あくまでもAさんの説明のままなのでそれ以上の詳細は不明)

そのため、元夫と連絡がつかなくなってから2日後には、すぐさまAさんは元夫の職場に連絡をしたのだが、そこで元夫がAさんに何の連絡もせずに職場を退職していたことが分かったのである。

職場は番人たる存在には成り得ない

元夫の職場の担当者は、当然そういった事情(元夫の給与差し押さえ)は把握しておらず、元夫が退職する際にも何も疑問には思わなかったというが、それは当然とも言えるだろう。

なぜなら、会社にはそういった義務もなく、義務以前にその事実を知らされていないのである。

この話を聞いた私は、この時初めて、いかに離婚後のシングルマザーが、か細く頼りない境遇での生き方を余儀なくされているかという事実を目の当たりにしたのである。

ただ、ここまで聞いて、あまりにも単純に「元夫の逃げ得」な状態である事に違和感を覚えた私は、そこまで法的に抜け穴があるものなのか?

いや、あって良いものかとすら思い、独力で調査してみたところ、ここで法の限界や矛盾を知ることになる。

あまりにも多くの手続きを重ねた先にある、「必ずしも回収出来るとは限らない」という現実

簡単に調べてみると、どうやらAさんのようなケースには「養育費の強制執行」という手段がある事がわかった。

これはAさんが正に行おうとしていた「支払いが滞った場合の給与の差し押さえ」などを孕んだ処置なのだが、その際の手続きは煩雑そのものである。

まず、養育費を強制的に執行するには『債務名義』が必要になる。

『債務名義』とは、養育費の存在を明確にした文書・証書のことであり、『強制執行認諾約款付公正証書』や『調停調書』などがある。

要するに「口約束」では当然ダメで、先にあげた書類の用意が必要なのである。

その上で、元夫の現住所と財産状況を把握している必要があるのだが、離婚直後ならまだしも、例えば2年3年、さらに5年10年と経過した段階で、常に相手の住所を把握し続ける事は可能なのだろうか。

当然それはケースバイケースなのだが、離婚から数年経った状態だと、実際のところどこに住んでいるかわからないという事も十分考えられる。

その場合は弁護士に調査を協力してもらうことは可能だが、調査に別途費用がかかる場合もあり、また必ず財産の存在を突き止められるとは限らないのである。

ここまでの条件をクリアし、初めて正式な手続きに入ることが出来る。

正式な手続きとして、とりあえず羅列すると

  1. 公証役場に離婚時に作成した公正証書を持参する
  2. 離婚公正証書正本
  3. 送達証明書
  4. 資格証明書
  5. 当事者の住民票、戸籍謄本など
  6. 表紙
  7. 当事者目録
  8. 請求債権目録
  9. 差押債権目録

これらをまとめて1冊の本のようにして、裁判所に提出するのである。当然記載漏れがあってはいけない。

さて、ここまで確認してどういう感想をお持ちになるであろう。

大切な我が子を育てていく為に絶対的に必要となる養育費の回収のため、絶対に避けては通れない道であるが、あまりにも煩雑で大量の書類が必要と感じないだろうか。

しかもこの申請を行う際、もちろん費用がかかるのである。

この時点で必要となる費用としては、

・申し立て手数料として4,000円(収入印紙)

・郵便切手代

この2種類である。4,000円(収入印紙)と切手代が高いか安いかは各々の感覚にお任せする。

Aさんが置かれた環境と制度のアンフィット面はどこか

ここで一つ補足しておきたいのは、上記制度が無能であるとは思っておらず、制度そのものを批判するつもりは毛頭ない。

当然これらの手続きを正しく踏んで、無事に回収できているケースもあるはずなので、当事者救済の有効な一手であることは
間違い無いと思う。

ただ、あえてここは面で考えずにAさんという点で考えた場合、やはり法の限界や根本的な矛盾を感じざずにはいられないということを前提にし、文章を続けさせて頂く。

ポイント1:”シングルマザーに許された金と時間Vs求められる費用と手間”

Aさんもそうであるように、ほとんどのシングルマザーは離婚後何らかの職についているケースが大半である。

厚生労働省にて行われた『平成23年度全国母子世帯等調査結果報告』によると、母子世帯の母の就業状況は約80%が何からの職に就労している事が分かる。

なので、「養育費の強制執行」の申請を行う前段階の準備のために、平日の日中帯を利用しての必要書類の収集や、各種手続きなどは非常に苦労を伴うものであり、ある意味職場の理解なしには行えない部分も少なくないのではないか。

ただ、もう少し掘り下げてみると、就労者80%の内、正規の職員・従業員は約40%であり、それ以外は派遣社員やパート・アルバイトが約50%と半数を占めている。

これはAさんのようにまだ小さいお子様を抱えている場合、なかなかフルタイムでの就労は難しく、ある程度時間に融通の利く派遣やパート・アルバイトに偏りがちになるからだとも予想できる。

その場合の利点としては、自分でシフトをある程度調整出来るパートタイムであれば、平日の日中などに時間を設けて手続きや書類回収にあてることは可能かも知れない。

ただ有給休暇を利用しているわけではないのでその分は単純に収入が減ることを考えれば、その点はデメリットにもなりうる。

ポイント2:”取り決めを履行せず、借金を抱えた元夫にモラルと経済力を求めざるを得ないという現実”

上記に挙げた「養育費の強制執行」には、多くの書類が必要になるが、最終的にはその書類が元夫の手元に届かないと、その目的を果たせないのである。

つまり、元夫の住所が正しいものである必要があるのだが、例えば、元夫が悪意を持って、誰にも告げずに住処を変えた場合、恐らくだがシングルマザーであるAさんが独力で調べあげることは難しいのではないか。

では高い報酬を払って探偵か、それに近しい第3者に代行依頼が出来るかといえば、それこそナンセンスであり、選択肢としては全く期待できない。

また別のケースとして、住所に問題はなく、元夫の所在を確保出来ていたとしても、元夫が「自己破産」していた場合はどうであろう。

この場合、たとえ自己破産していても、支払いの義務がなくなったわけではないので、あくまでも元夫は支払いを継続しなくてはならないしその責任からは逃れられない。

ただし、結局は支払い能力が物を言うのである。

つまり、自己破産した元夫に養育費を請求する権利はあるが、実際に回収できるかは甚だ疑問であり、結果的に泣き寝入りになるケースが十分にある。

今回のAさんは前者であり、行方知れずになってしまった元夫を探しだす術はほとんど残されておらず、ほぼ泣き寝入りの状態であり、だからこその「退職相談」だったのである。

では、今回Aさんが当社を退職したとして、事態はどのように動いていくのであろうか。

Aさんが求める条件と転職市場

こういった状況に陥ってしまったAさんにとって、転職はどういった意味を成すのだろうか。

兎にも角にも、現時点でのAさんの最優先事項は「収入の引き上げと安定」である。

今以上の給与を確保し、それを安定して得続ける為の選択肢としては、まずは正社員という雇用形態がもっとも望ましい条件であろう。

では、正社員という待遇を得たとして、下のお子様はまだ5歳のため当然保育園の利用が必須であり、保育園を利用するということは同時に朝夜の送迎が必要となる。

となると、Aさんの条件としては正社員というだけでは不足している。Aさんに必要なのは、残業がなくほぼ定時で帰宅することが約束された正社員なのである。

また、未就学児のお子様のをお持ちの方の場合、お子様の体調不良はすなわち自らの欠勤か早退と同義である。

地域や場所にもよると思うが、お子様の体温がある基準値を超えたり、医師の診断により何らかの感染症への罹患が判明した場合、そもそも預かってもらえない保育園が多いと聞く。

そうなると、22万~23万総支給がある正社員、かつ残業なし定時帰宅という条件に加え、その都度の欠勤早退が認めてもらえる職場という要素が加味される。

果たしてそういった職場があるかどうかは、ここでは明言しないが、かなり厳しい条件であることは揺るがないであろう。(Aさんと私が暮らす地域での一般的な基準であることを前提に記載)

2年後に再び訪れる「小1の壁」

小学校以上のお子様がおり、その当時ご自身も就労されていた方はすぐにピンと来るであろう「小1の壁」にAさんも再び立ち向かわなくてはならないのである。

殆どの小学校の場合、1年生の1学期は朝8時半頃から昼の12時ころまでの授業から始まり、徐々に終業時間が14時まで伸びていくのである。そしてその14時以降の放課後に子供が過ごす場所は「学童」や「児童館」になる。

保育園の場合、認可など自治体の運営や補助のもとに成り立っている園であれば、19時位までお子様を預かってもらえるし、
民間の園ならもっと遅い時間まで開いている場合もあるが、学童や児童館の場合、17時~18時で終わるところが多い。

簡単にまとめると、保育園のほうが「子供を預かる」という点では段違いに優秀なのである。

これが小学校も中学年程度になってくると、ある程度自分のことは自分で出来るようになり、かなり母親の負担も減っていくのだが、小学校1年生は出来ることは保育園とあまり変わらないが、保育園ほど学校は面倒を見てくれないのである。

なので、小学校に上がってすぐの1年生時期は、かえって親のフォローが保育園児よりも増えるという問題があり、全く別の観点では、平日に行われる学校行事への参加や増え、より一層の出勤調整が必要になることから、この時期をどうやって乗り越えるかが大きな問題となってAさんを待ち構えているのである。

退職希望を出したAさんの今

数カ月前に退職希望を申し出たAさんは今どうしているかというと、相変わらず当社で業務を続けている。

その理由は、私の必死の説得が効いたわけでも、Aさんの元夫と連絡がついて養育費の支払いが再開されたという理由でもない。

単純に条件にあう就職先への転職の道筋がつかず、「残るしかないので残っている」状態と言える。

幸いにもAさんはだからといって業務を疎かにしたり、勤怠が悪化するということもなく精力的に業務をこなしてくれている。

ただ、私もAさんも分かっているが口にしないこと、それは「何も解決していない」ということである。

私も上司として可能な限りサポートしたいと考え、勤務時間の短縮や歩合のつく部署への異動などを勧告しているが、どれも芯を打った対策とは言えず、一時しのぎにすらなっていないのである。

そういった意味では、私自身がAさんをとりまく矛盾の一部であり、Aさんをただ見つめるだけの存在なのかも知れない。

国の制度や仕組みがいきなり大きく変わるとは思わないが、もう少し頑張っているシングルマザーにやさしい環境を整えて貰いたいものだ。